作品集

白秋の詩と音楽、
日本の心を奏でる
北原白秋は、日本近代文学の重要な詩人であり、その作品は日本の心情や風土を深く反映しています。繊細な筆致と共に、日本文化の魅力を余すことなく伝えています。ここでは白秋の代表作品の一部を紹介しています。
  • 邪宗門
    1909(明治42年3月)
    1909年(明治42年)3月、白秋が24歳のときに発表した処女詩集。
    1906年(明治39年)頃からの1908年(明治41年)を頂点とする数年間の作品を収録。
    白秋は石川啄木に『邪宗門』を届けた。啄木からは「この詩集に溢れている新しい感覚と情緒は、今後の新しい詩の基礎となるべきものだ・・」と感想が送ってきたという。
    室生犀星は、毎日曜ごとに金沢の本屋に行っては、『邪宗門』の発行はまだかというふうに急がし、刊行されると威張って町じゅうを抱えて歩いたそうである。
  • 思ひ出
    1911(明治44年6月)
    1911年(明治44年)6月に発表した抒情小曲集を発表。
    幼少年時代を過ごした故郷・柳河の思い出を小曲で描いた作品。
    上田敏から賛辞を受けるなど最高の評価を受け、26歳にして一躍、文壇に躍り出ます。
    当時の文学界には、すでに明治の文壇に確固たる地位を築いていた森鷗外、「君死にたまふことなかれ」の詩で脚光を浴びた与謝野晶子、自然主義文学の代表作家、島崎藤村など、壮々たる顔触れが揃っていた中にあって、白秋は雑誌「文章世界」の読者人気アンケートで、詩人の部門で、堂々の第1位に輝きました。白秋の出世作です。
  • 桐の花
    1913(大正2年1月)
    1913年(大正2年1月)に出版した処女歌集。
    短歌の制作年は、明治42年より45年(大正元年)に至っている。
    「桐の花とカステラの時季となった。…ウイスキイや黄色いカステラの付いた指のさきにも触れる…しみじみと桐の花の哀亮をそへカステラの粉っぽい触感を加へて見たいのである。…」
    『桐の花』は、古い伝統的形式の短歌に新しい感覚を取り入れ、印象派=ヨーロッパ精神との接点をもとめていった。
  • 東京景物詩及其他
    1913(大正2年7月)
    1913年(大正2年7月)に出版した第3詩集。
    明治42年『邪宗門』出版の頃から大正2年に至る約4ヶ年の作を集めたもの。
    木下杢太郎らと起こした芸術家のサロン「パンの会」で芸術の自由と享楽の権利を謳歌した時期の作品が収められています。
    1916年(大正5年)、『東京景物詩及其他』は第3版を出すに際して『雪と花火』に改題されます。
  • 白金之独楽
    1914(大正3年12月)
    1914年(大正3年) 白秋29歳の頃の作品集。
    白秋みずからが描いた、この本の挿し絵には、エロスと仏の世界が交差する、さまざまな不思議なイメージであふれています。
    この作品には愛欲の日々に埋没し、己の心の闇を凝視しつつ葛藤する、白秋の魂の慟哭が塗り込められています。人間の業を極限まで見据えることで、また新たなる境地を、切り開いた作品です。
  • 雲母集
    1915(大正4年8月)
    「雲母集」は1915年(大正4年)に発表された「桐の花」に続く白秋の第2歌集です。 白秋28~29歳の頃、東京から移り住んだ神奈川県三浦三崎の生活から生まれた556首が収められています。 白秋がこの地で得たのは、東京生活で享受した人工的な都会の風景とは対照的な境地でした。 海洋や田園などの素朴で輝かしく豊かな自然の偉大な働きに対する光明賛嘆の理想主義的詠風が、 この歌集の基調となっています。
  • 雀の卵
    1921(大正10年8月)
    1921年(大正10年)、白秋の第3歌集。1914年(大正3年)夏より、1917年(大正6年)の初夏までの白秋の生活の中から生まれた作品。
    「葛飾閑吟集」「輪廻三鈔」「雀の卵」の3部からなり、短歌687首、長歌12首、小詩2編が収録されています。
    この頃、白秋は、小笠原、麻生、葛飾と居を移し、貧窮の中、生活をしていました。
    日々の生活の中、米櫃に僅かに残っている米を庭先にやってくる雀たちに蒔いて毎日、雀を見て暮らしていていたといいます。
    物質的な都会生活を捨て、貧しくとも畑で野菜を耕す郊外の生活の中で描かれたこの作品群には、白秋の新たな作風・境地を見ることができます。
  • 水の構図
    1943(昭和18年1月)
    写真家 田中善徳(たなかぜんとく)と共に、柳河の写真集『水の構図』を発表。
    白秋没後の1943年(昭和18年)に刊行。
    故郷 柳河の風景と白秋の詩情を合わせた作品集。
    写真と文章の融合は当時、かなりのセンセーショナルなものでした。
    「水郷柳河こそは、我が生れの里である。
    この水の柳河こそは、我が詩歌の母體である。
    この水の構図この地相にして、はじめて我が體は生じ、我が風はなった。…」
    この文章が、白秋の遺稿となります。